なぜ歩くとコーヒーがこぼれるのか?「スロッシング現象」で解くカップの物理
歩きながらコーヒーをこぼす理由――“コーヒースピル効果”とは?
朝の出勤時、ホットコーヒーを片手に歩く。 ふと気づくと、カップの縁から液体がピチャッとこぼれてシャツにシミ――。 誰もが一度は経験したであろうこの“悲劇”に、物理学者たちが本気で挑みました。
その研究タイトルは、「The Coffee Spill Effect While Walking(歩行中のコーヒーこぼれ効果)」。 2017年にアメリカ・ノースウェスタン大学の研究チームが発表し、 “日常の謎を物理で解く”として世界中のメディアが取り上げました。
どんな実験だったのか?
研究チーム(Han, Hu, & Bush, 2017)は、20名の被験者を対象に、 手に紙コップを持って歩く様子を高速度カメラで記録しました。 コーヒーの代わりに、液体の波を観測しやすい「黒インク水溶液」を使用。
被験者には「普通に歩く」「早歩きする」「小走りする」など複数条件を設定し、 液面の動き(振幅)とカップの傾き、歩行周期を解析しました。
結果、液体がこぼれる瞬間の90%以上は“1〜2歩目”に集中しており、 しかもその振動周期は人間の歩行リズムとほぼ一致していました。 つまり、“自分の足の動きがコーヒーの波と共鳴している”のです。
なぜこんなことが起こるのか?――スロッシング現象とは
この現象を説明するキーワードは「スロッシング(slosh)現象」。 液体が容器内で揺れ、共鳴状態に入ることで振幅がどんどん大きくなる現象を指します。
カップの中のコーヒーにも“固有振動数”があり、 これはカップの直径・液体の深さ・重力加速度によって決まります。 実験では平均で約2〜3Hz(1秒間に2〜3回の揺れ)という数値が導かれ、 これはちょうど人間の歩行のステップ周期と一致。
つまり、「足音=波のドラムビート」になっており、 歩けば歩くほどカップ内の液面が共鳴的に増幅し、こぼれ出すというわけです。
この研究が教えてくれること
この研究の本質は、人間のリズムと自然現象が意図せずシンクロしているという点にあります。 私たちは歩くとき、骨盤や腕の動きを一定のリズムで繰り返しています。 それが容器内の流体と共鳴すると、制御不能な波が生まれる――。
つまり「不器用だからこぼす」のではなく、“構造的にこぼれるようにできている”のです。 この発見は、日常動作に潜む微小な物理現象の積み重ねを理解するきっかけとなりました。
日常で見られる“スロッシング効果”の例
- 洗面器やバケツの水を持って歩くとき、縁からこぼれる。
- 汁物入りの鍋を運ぶとき、少しの揺れで中身が跳ねる。
- 電車やバスの急ブレーキで飲み物が揺れてあふれる。
- タンクローリーの中の液体が揺れることで車体が不安定になる。
- 宇宙船の燃料タンク内の液体がスロッシングし、姿勢制御に影響する。
どうすればコーヒーをこぼさずに歩ける?
研究チームは、いくつかの実践的アドバイスも提案しています。
- カップを満杯にしない:液面の自由度を減らすと共鳴が起きにくくなる。
- 最初の2歩をゆっくり:共鳴が生じる前に安定化できる。
- 注意をコーヒー以外に向ける:過剰な注視が手の微振動を生む(逆効果)。
- 少し上を見て歩く:姿勢が安定し、手先の揺れが軽減される。
さらに、ハンドル付きのマグカップや蓋付きタンブラーは、 液体の“自由表面”を制限することでスロッシングを抑える効果があります。 コーヒーショップのフタには、実はそんな科学的合理性が隠されていたのです。
まとめ:コーヒーをこぼすのは、あなたのせいじゃない
「歩きながらコーヒーをこぼす理由」は、 物理的に避けられない共鳴現象=スロッシングが原因でした。
この研究は、“不器用な人の救済”というユーモラスなテーマの裏で、 日常の中に潜む見えない法則を美しく示しています。 私たちの身体リズムと自然の法則は密接にリンクしており、 ほんの一杯のコーヒーにも、流体力学の奥深さが詰まっているのです。
――今日こそはこぼさず歩こう。 でも、もしこぼれても、それは「科学のせい」です。
参考文献
・Han, J., Hu, W., & Bush, J. W. M. (2017). “The Coffee Spill Phenomenon: Dynamics of Walking with a Cup of Coffee.” *Physical Review E*, 95(6), 062607.
・Tremblay, M. (2018). “Resonance and Everyday Physics: Lessons from Coffee Spills.” *American Journal of Physics Education*, Vol. 86.
・イグ・ノーベル賞関連特集『Physics of Everyday Life』, Harvard University.

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